「sleepers」という映画を見て。

ブログでは初めての映画の紹介である。

映画はとりわけ好きなのだが、見終わったの余韻だけで満足できなくなってきたのが正直な最近の気持ちであり、そして、加えてある方の本に影響されて映画の感想などもブログを書こうと思ったからである。それは前回のブログでも紹介した、本山勝寛さん著作の独学術の本である。

そして、最近見た中でも印象に残り考えさせられた「sleepers」という映画について色々考えてみたい、と言ってもほぼ感想になるかもしれないけれど。

この映画は簡単に説明すると、1950年代頃のNYで、下町の様な移民が多く住んでいる地域でいつもつるんでいる仲良し四人組の男の子たちがいた。ある日、いつもいたずらばかりしている彼らは、ホットドッグ屋の屋台を店主がいない時を見計らって、動かして驚かせようしたところ、誤って階段から落とし人を病院送りにしてしまう。

その事件で少年たちは、少年院に送られてしまう。

彼らのような町の不良をいつも面倒見てくれていたその町の神父さんは彼らのためにいろいろ手を尽くしたのだが、結局そういう結果になってしまい、落ち込んでいる彼らに言葉をかける。いつも強いと思うな、心を失うなと。

しかし、少年院では看守達による少年たちへの虐待が日常茶飯事に行われていた。そうしたなかで、彼らは心を失いそうになる。彼らはここで起きたことを四人の秘密として一生口外しないようにする。

そして少年院から出た彼らは、成長し二人はギャングに、一人は検察官、一人は記者になりそれぞれの生活送っていた。

そんなときに当時の看守に出会ったギャングの二人は、怒りに身を任せ彼を殺してしまう。ギャングの二は人容疑者として引っ張られてしまったが、それをチャンスと見た残りの二人はほかの看守たちを昔少年院で行われていた虐待を暴き、復讐しようと試みる。結果としてギャングの二人は無罪になり、検察官、記者の二人は残りの看守に様々な方法で復讐を果たす。

この映画では彼らが少年院時代に受けた虐待が、それほどまでに心に傷を負い大人になってもそのことで彼らの心をむしばんでしまっているのがわかる。ここでは曲がりも何も人殺しをしてしまったギャングの二人を救うために昔お世話になった神父に法廷で、うそのアリバイを証言してもらうために残された二人は頼み込んでしまう。神父は何かあればいつでも頼ってきなさい、と少年院を出た彼らに伝えてはあったが、あまりの申し出の大きさに悩んでしまう。神父は最後には彼らのために嘘をつく。しかし私が思うのは神に仕える神父が聖書に手を置き、うそをつかないことを誓って証言する法廷でうその証言をして殺人の片棒を担ぐのはおかしいという事である。虐待されたことはどうしても許せないが人を殺してしまって無罪になっては何が正しいのかがわからなくなってしまう、二人は復讐を果たしたのだから、その分ちゃんと服役して罪を償うべきだったと思うしそして神父には個人仕事を貫いてほしいと思った。それが正直な感想であるが、より客観的な視点で見たときに、神父は少年院で起きたことが殺人よりも大きな罪であるという風に思い至ったのではないだろうか、だからこそ殺人を犯した彼らよりも殺された看守を罰すべきだと思ったのであろうとも思う。

神父はすぐに結論を出さず悩みに悩み法廷が始まっても悩み、何が正しいのか心が揺れたけれども自分だったらどうしていたのだろうかと思ったときに、うその証言はできないとおそらく頼まれた時点で言っていただろうと思うが、自信はない。実際にそんな衝撃的な過去を持つ人が周りにいるはずもないから。。でもこうした映画を通して自分だったらどうしただろうかと考えることができるのはすごく自分の考察力、客観的に見る力を養うと思う。